生活の記録

ラッパーKAR としての音楽活動のこと、障害のある子供たちと共に学ぶ仕事を通じて社会に発信したいことを書き連ねます

「ゆらぎ」を認め続けること


久々になにかを書きたいなあ

と思ってブログを開いてみました

言葉にすることで色々整理してみようかなあと思って。







最近ほんまに暑いですね

部屋のクーラーが不調で

毎日命懸けで睡眠をとってます

大概4時ぐらいに「み、、みず、、」

ってなって起きてしまう

最近のストレスです笑




今日は休日で

同僚の人の誕生日をお祝いしに休みやけど教室に行ったり

その後髪の毛を久しぶりにめっちゃ短くしたり

資格の勉強にとりかかろうと思ったり

(まだ行動には移していない)

リリックをちょっと書いては全部消したり

そんな風にこの時間まで過ごしました












相変わらず楽しく日々働いています

やっぱこの仕事は天職やなあと心から思う



ただ、「障害のない社会を作る」

に近づくにはどうすればいいんやろ?

もっといい支援者になるにはどうすればいいかな?


なんてずーっと思考を張り巡らせたり

行動に移してみたり

時に思い悩んだりしています。












「ゆらぎ」を認め続けること




というテーマを偉そうに掲げてみたのはいいんですが、僕は何かを悟ったわけでもなければなにかしらの正解にたどり着いたわけではないので一つの意見として、もし見ていただいているなら捉えてもらえると嬉しいです!












ここで「ゆらぎ」と表現していることは

所謂、葛藤のことです。



そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない



とゆらぐこと








それを認め続ける。




ふわっとしてるので

実際の支援の場を想定して具体的に。











例えば

一定時間、席に座ることができない

衝動性のあるお子様(小学校低学年)

がいるとします

学校でもうまくいっていなくて

なんとか落ち着いて過ごせるようになってほしいなあという保護者様の願いがある





日々関わっていく中で




この子は指示をしっかり理解することができないから、不安で席につけないのかなあ?


という考えに至って、「指示を理解する」

というところを目標に支援を進めよう


と、ある支援者は考えます。







そしてあれこれ思考錯誤して、

目で見て見えるように視覚的に指示を提示すると、とても指示を理解するようになった









なるほど!この子は視覚優位なのか!








という一つの答えを見つけます。


そしてそれを疑わず日々の支援を続けていく





でも中々、座って活動を続ける


というところがうまくいかない






おかしいなあ?





と支援者は思います。






指示の理解が足りてないんだ!

もっと理解させないと






と考え、必死になって指示を理解させる

ということを推し進めていく






時に怒ることもあったり



でも中々難しい

 





ここで、一つの「ゆらぎ」が生まれます







なにがあかんかったんやろう?

なんでうまくいかへんのかなあ?




もしかしたら指示は理解できてるのかな?

離席の理由はそこにないのかな??



とか、


視覚的に提示することが効果的だ!




と思ったけど、もっといい提示の方法があるんかもしれない




という葛藤です。






これを認め続けていくことで






実は感覚を求め続けるようなところがあるのかも??というまた別の考えに至りました






それを受けて

プニプニのボールとかハンドスピナー


のような感覚グッズを渡してみると

離席がなくなった










というようなケース。











ここでのポイントは


「指示を理解する」


というところが離席の理由ではなかった



ことに対する、間違えた、、、



という失敗







ではなく、





そこをもう一度考え直した



というところにあるのかなあ?と









つまり日々

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない


の視点を持ち続けて向き合うことができた





というところです。












そして何よりこの「ゆらぎ」は対話を産みます










絶対にこうや!!



と思っているとすると





保護者の方や、同僚のスタッフと



対話になりません



僕はこう思ってるからそうします



で終わってしまう。













ほんまにそうなんかなあ?



という考えを持っていると








「なんでなんかなあ?」

「どう思います??」


という対話が自然と出てくる。




ここもとっても大事だと僕は思ってます。












しかし、この「ゆらぎ」を認め続ける



ということはとても体力のいることで

自己否定感にも繋がりかねないとこであり





ここをとっても大事に思っている僕でさえ

いつもゆらぎを認められているか?







というとそうではないかもしれません









しっかりしないと!という重圧

自分の考えに対する自信やプライド

保護者や当事者の大きなニーズによる外圧

余裕のある状態とは程遠い日々の忙しさ




様々な要因が

「ゆらぎ」を持ち続けることへの弊害になると思っています。









そりゃそうですよね?

自分の考えを批判的に考えて

一度全てを壊すのは

できればしたくないし



そんなこと考えない方が楽に過ごせるし、



そもそもそこまで仕事に対して

考えられないよ!

という人だっていると思うし


日々の忙しい!


メリットがない!







とかね







でも対話には価値があって

なんどもゆらいで目の前の当事者やお子様と向き合い続けるからこそ

感じることができる充実感や信頼関係がある








ここの価値をもっと僕らは表現していかないとあかんと思ってます




具体的な事例とかを

どんどん言語化していったり





ちゃんと「ゆらぎ」を認めれるような

環境を設定していったり









「支援」という仕事はこんなにもやりがいがあるんだ!

なにも特別なことではないんだよ!

と社会に発信していかないといけないような気がしています。











これはよくある話なんですけど、




1人で小料理屋みたいなところに飲みにいって


隣におっちゃんとかが座って






「にいちゃんいつもくるの?」


「ちょいちょい、きますね〜!」



みたいな









「仕事はなにしてるんや??」




「障害のある子供達に勉強を教えたり、一緒にいろんなこと考えたりしてます」






この後のおっちゃんのセリフはいつもこう






「誰にでもできることじゃないよ

ほんまにえらいなあ〜〜」





というようなやつ








社会がそう捉えてる時点で

障害のない社会にはならないのかな





もっとカジュアルな仕事としてみんなに捉えて欲しいし、もっと当たり前になる必要がある。














そのためには

前述の

「ゆらぎ」を認め続けることができる




環境を整備していかないと










支援職が「きつい」「しんどい」

というイメージは変わらないんじゃないかなあってぼやーって思います。












こうあるべきだ!


というのは専門的な知識(もちろんめちゃ大事、目下勉強中)


を武器のように扱う

状態にも拍車をかけてしまう











みんながそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない



って考えて、対話しまくって

当事者と共に日々を過ごしていけるようになったらいいなあなんて最近思います。














もちろんある種の答えは必要です

じゃないとなんの行動も起こさないし

意見や考えも生まれないから


ただその答えに対して日々ゆらぎ続けていきたい










僕がここまで書いたことだって



そうかもしれないし、そうじゃなかもしれないし、、










もっと掘り下げていきたいです






また楽しかった事例とか書いてみようかな







では、皆様この殺人的な暑さに気をつけて

良き夏を過ごせますように🙏