生活の記録

ラッパーKAR としての音楽活動のこと、障害のある子供たちと共に学ぶ仕事を通じて社会に発信したいことを書き連ねます

「ゆらぎ」を認め続けること


久々になにかを書きたいなあ

と思ってブログを開いてみました

言葉にすることで色々整理してみようかなあと思って。







最近ほんまに暑いですね

部屋のクーラーが不調で

毎日命懸けで睡眠をとってます

大概4時ぐらいに「み、、みず、、」

ってなって起きてしまう

最近のストレスです笑




今日は休日で

同僚の人の誕生日をお祝いしに休みやけど教室に行ったり

その後髪の毛を久しぶりにめっちゃ短くしたり

資格の勉強にとりかかろうと思ったり

(まだ行動には移していない)

リリックをちょっと書いては全部消したり

そんな風にこの時間まで過ごしました












相変わらず楽しく日々働いています

やっぱこの仕事は天職やなあと心から思う



ただ、「障害のない社会を作る」

に近づくにはどうすればいいんやろ?

もっといい支援者になるにはどうすればいいかな?


なんてずーっと思考を張り巡らせたり

行動に移してみたり

時に思い悩んだりしています。












「ゆらぎ」を認め続けること




というテーマを偉そうに掲げてみたのはいいんですが、僕は何かを悟ったわけでもなければなにかしらの正解にたどり着いたわけではないので一つの意見として、もし見ていただいているなら捉えてもらえると嬉しいです!












ここで「ゆらぎ」と表現していることは

所謂、葛藤のことです。



そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない



とゆらぐこと








それを認め続ける。




ふわっとしてるので

実際の支援の場を想定して具体的に。











例えば

一定時間、席に座ることができない

衝動性のあるお子様(小学校低学年)

がいるとします

学校でもうまくいっていなくて

なんとか落ち着いて過ごせるようになってほしいなあという保護者様の願いがある





日々関わっていく中で




この子は指示をしっかり理解することができないから、不安で席につけないのかなあ?


という考えに至って、「指示を理解する」

というところを目標に支援を進めよう


と、ある支援者は考えます。







そしてあれこれ思考錯誤して、

目で見て見えるように視覚的に指示を提示すると、とても指示を理解するようになった









なるほど!この子は視覚優位なのか!








という一つの答えを見つけます。


そしてそれを疑わず日々の支援を続けていく





でも中々、座って活動を続ける


というところがうまくいかない






おかしいなあ?





と支援者は思います。






指示の理解が足りてないんだ!

もっと理解させないと






と考え、必死になって指示を理解させる

ということを推し進めていく






時に怒ることもあったり



でも中々難しい

 





ここで、一つの「ゆらぎ」が生まれます







なにがあかんかったんやろう?

なんでうまくいかへんのかなあ?




もしかしたら指示は理解できてるのかな?

離席の理由はそこにないのかな??



とか、


視覚的に提示することが効果的だ!




と思ったけど、もっといい提示の方法があるんかもしれない




という葛藤です。






これを認め続けていくことで






実は感覚を求め続けるようなところがあるのかも??というまた別の考えに至りました






それを受けて

プニプニのボールとかハンドスピナー


のような感覚グッズを渡してみると

離席がなくなった










というようなケース。











ここでのポイントは


「指示を理解する」


というところが離席の理由ではなかった



ことに対する、間違えた、、、



という失敗







ではなく、





そこをもう一度考え直した



というところにあるのかなあ?と









つまり日々

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない


の視点を持ち続けて向き合うことができた





というところです。












そして何よりこの「ゆらぎ」は対話を産みます










絶対にこうや!!



と思っているとすると





保護者の方や、同僚のスタッフと



対話になりません



僕はこう思ってるからそうします



で終わってしまう。













ほんまにそうなんかなあ?



という考えを持っていると








「なんでなんかなあ?」

「どう思います??」


という対話が自然と出てくる。




ここもとっても大事だと僕は思ってます。












しかし、この「ゆらぎ」を認め続ける



ということはとても体力のいることで

自己否定感にも繋がりかねないとこであり





ここをとっても大事に思っている僕でさえ

いつもゆらぎを認められているか?







というとそうではないかもしれません









しっかりしないと!という重圧

自分の考えに対する自信やプライド

保護者や当事者の大きなニーズによる外圧

余裕のある状態とは程遠い日々の忙しさ




様々な要因が

「ゆらぎ」を持ち続けることへの弊害になると思っています。









そりゃそうですよね?

自分の考えを批判的に考えて

一度全てを壊すのは

できればしたくないし



そんなこと考えない方が楽に過ごせるし、



そもそもそこまで仕事に対して

考えられないよ!

という人だっていると思うし


日々の忙しい!


メリットがない!







とかね







でも対話には価値があって

なんどもゆらいで目の前の当事者やお子様と向き合い続けるからこそ

感じることができる充実感や信頼関係がある








ここの価値をもっと僕らは表現していかないとあかんと思ってます




具体的な事例とかを

どんどん言語化していったり





ちゃんと「ゆらぎ」を認めれるような

環境を設定していったり









「支援」という仕事はこんなにもやりがいがあるんだ!

なにも特別なことではないんだよ!

と社会に発信していかないといけないような気がしています。











これはよくある話なんですけど、




1人で小料理屋みたいなところに飲みにいって


隣におっちゃんとかが座って






「にいちゃんいつもくるの?」


「ちょいちょい、きますね〜!」



みたいな









「仕事はなにしてるんや??」




「障害のある子供達に勉強を教えたり、一緒にいろんなこと考えたりしてます」






この後のおっちゃんのセリフはいつもこう






「誰にでもできることじゃないよ

ほんまにえらいなあ〜〜」





というようなやつ








社会がそう捉えてる時点で

障害のない社会にはならないのかな





もっとカジュアルな仕事としてみんなに捉えて欲しいし、もっと当たり前になる必要がある。














そのためには

前述の

「ゆらぎ」を認め続けることができる




環境を整備していかないと










支援職が「きつい」「しんどい」

というイメージは変わらないんじゃないかなあってぼやーって思います。












こうあるべきだ!


というのは専門的な知識(もちろんめちゃ大事、目下勉強中)


を武器のように扱う

状態にも拍車をかけてしまう











みんながそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない



って考えて、対話しまくって

当事者と共に日々を過ごしていけるようになったらいいなあなんて最近思います。














もちろんある種の答えは必要です

じゃないとなんの行動も起こさないし

意見や考えも生まれないから


ただその答えに対して日々ゆらぎ続けていきたい










僕がここまで書いたことだって



そうかもしれないし、そうじゃなかもしれないし、、










もっと掘り下げていきたいです






また楽しかった事例とか書いてみようかな







では、皆様この殺人的な暑さに気をつけて

良き夏を過ごせますように🙏




「僕は君の味方なんだよ」の意識



日々所謂、障害特性から凹凸のあるお子様と関わっていると

たまに衝突することがあります。





今日1つそういうことがありました



ホッチキス止めされたプリントの束を見て、ある子供が「この1枚目のプリントはやりたくないから外して」


と要望があったから

ビリッと一枚剥がしてどうぞ


って渡すと



「ちぎれとは言ってない!プリントがやぶれたもういやだ!!!」





と叫んで机をガーーーンって蹴っ飛ばしてパンチパンチキックキックみたいに暴れだしました。






僕は「それは、言ってくれないとわからないし暴れたって前もって教えてくれないと、わからないよ」






と伝えます。






ここでこちらがごめんね

じゃあ新しいの取ってくるね




と言うときっとその子は落ち着くし

それで何の問題も起きないけど






僕の良かれと思ってとった行動は

どうなるの?





って





嫌な気持ちにしようと思ってとった行動ではないのです








そういうことを理解するのは彼的に

やや難しいということはわかった上で



一回ぶつかる道を今日は選んでみました








自分にとって許せないことが起こった時に

どうすれば落ち着けるかを知る



というのはとっても必要なことだから








でもこれは1つ間違えると関係性が壊れたりすることにつながりかねないので




とっても主観的で抽象的だけど

「僕は味方なんだよ」ってゆう

ことを伝えることに注力しました












彼は続けます



「ホッチキスを持ってきてもう一度止めてくれ」と




要求を表出することができる


というのはすごいことなので







ちゃんと教えてくれてありがとう


 ということは伝えつつ





「他にもお友達がいるから僕だけ教室を離れてホッチキスを取りに行くわけにはいかないんだ」





と言いました









そしたら彼は



「お前は先生のくせになんにもしてくれない!!僕は伝えた!」と一点張り



でも僕も僕の言い分を優しく伝えつつ譲らない


しばらくこの時間が続きました













するといつも結構自分勝手なところがあり、暴れている彼とは喧嘩をしたこともあるもう1人の男の子が


「水を飲みにいきたい」



といって、教室を出ていって帰ってくるついでに

他の指導員からホッチキスをもらってきて

僕に渡してくれました。














すごいことやな


と思った。






葛藤という要素は学びを生み出す

ということを改めて実感した。










暴れていた彼は

「先生がホッチキスを持って来てくれないと意味がない」


といいつつも、新しく束になったプリントをみて少しずつ落ち着いていきました。










しばらくして



僕が「ちぎっちゃってごめんね、でも、ちゃんと自分で切り替えれたから偉いね」



と優しく言い



「〜君が嫌いだから言うことを聞かなかったんじゃないよ。むしろ聞いてあげたかったに決まってるやん。でも僕にも僕の言い分があったんだよ」


と続けました。





僕は君の味方なんだよ


と伝えることを意識しながら










すると彼は悪戯に笑いながら

「お母さんには暴れたこと言わないでね

よかったことだけ言ってね」



と、ぼそっとつぶやきました







だから

「当たり前やん今勉強頑張ってるし

自分で切り替えて偉いよ」






と褒めてあげた




2人だけの秘密やで


みたいな空気が流れた。






彼はそこからすごく笑顔で活動に参加して





お友達のいいところを見つけよう




というプログラムでは




ホッチキスを持って来てくれた男の子に





「困っている時助けてくれる」




と、いいところを伝えていました。










本当にすごいなあと思った



普段この2人はライバル意識がすごくて

なかなか認め合わないんだけど





ありがとう



ってゆう気持ちを伝えて


お互いがお互いを認めあってた




すごくいい経験を彼はしたんだと思う。














対等ではない、縦の関係性だと

この学びは生まれないと思ってます



暴れてはいけない


落ち着きなさい



とただ頭ごなしにコントロールすることも違う




し、すべての要求をのんで事なきを得るような逆もまた然り。





合理的な配慮はしつつ

対等の立場で関わること








たしかに暴れた彼にとっては今日のやりとりはすごい負担のかかることだったかもしれないけど







最後はぼくとも仲直りして

とっても楽しそうに帰っていきました。












「葛藤」という要素は対等な関係性でこそ学びに変わるんだと思う。


でもただ衝突することと葛藤は違う。







そして衝突、と葛藤

の違いは


「僕は君の味方なんだよ」



ということをしっかり伝えることができるかどうかというところなんじゃないかなと



 表情や声かけ、気持ちの部分の話にはなるけどそういう空気感を伝えること。










答えなんてないんです





もし特別支援教育に絶対的な答えが

ある日提示されたら



もうこの仕事はやめると思う。









人の気持ちは分からなくて当たり前

だから葛藤して関わろうとする


障害のあるお子様との関わりもまた同じです



障害特性や専門的な知識はもちろん

頭に入れるし、そこに配慮した環境も設定するけど



分からないことがあって当たり前なんです

だから、当事者と対話が生まれる。もちろん葛藤することもある。




その葛藤をプラスに変えるスパイスは



「僕は君の味方なんだよ」



という意識かな



なんてお酒飲みながら思いました。


特別支援教育における「学習」について大事だと思うこと


いわゆる、LD傾向があったりするお子様の学習指導など、特別支援教育に日々、携わる中で気づいたことなんですが



子供達の学習に関する特性としては



国語の漢字が覚えられないとか

数字が捉えにくいとか

読むのが苦手

口頭での説明がわかりにくい

視覚的な情報は逆に難しいとか

あげきれないぐらい沢山ある


本当に様々です。



一人一人の特性にあった指導を

と毎日色んなことを試行錯誤しますが






総じて

「情報を必要なところだけ切り取って学ぶことの困難さ」




ここを解決していくことを支援していく

ってゆうことなんじゃないか


ってなんとなく昨日と今日で言語化できたような気がしました。











ついつい、色んなことを試行錯誤して

アイディアを足し算のように組み立てていくように考えてしまうのではないかなと

(もちろんそれでうまくいくこともある!)



この子はどこが苦手なんだろう


って苦手なとこをアセスメントする


で、その苦手を克服する手立てを考える


一般的な教材に一手間足し算的に加える


とか!





例えば国語の読解が難しい子に


話の流れを順序立てていくことが苦手なんだなって気づいて


1つ1つ整理するためのシートを作ってそれを一緒に埋めていく





とか、(これは実際にやったことある笑)




ついつい、直接的に苦手なところを見がちになってしまう。











昨日、国語で音読を聞いて答える

ことが苦手な子に


音読の学習をやったんですけど




ふと思いついて、

設問と本文をハサミで切り分けたんです








で、まず設問だけを子供に渡しました






「なにを答えなきゃいけないのか、しっかり一緒に確認しよう」






と言って一緒にまず、本文からじゃなくて


一体なにを聞かれているのか?なにをしっかり聞いとかないといけないのか?ここを先に確認するために

設問を何度か熟読しました







 「準備ができたら教えてね

本文をぼくが音読するから」





と声をかけて、子供の合図で

本文を音読しました。












その子にとって

「音読を聞く」というスキルからすると結構長めの文章を















一回読み終わって問題を解いてもらうと









全問正解したんです。






僕はかなり感動して

「めっちゃすごい!めっちゃすごい!」

って言いながら拍手しました笑




本人も「すごい!!大事なところだけ聞くことができた。とても勉強になった」












とすごく喜んでました。















この事例をまとめると





いつも、本文から読む

という風に国語の勉強をしていた彼は




わからない単語、漢字、様々な情報



が一度に入ってきて、それを一気に処理するキャパがなかった。






でも物事を覚えることができないわけではないのです。




僕は彼の困難さを「物事を覚えること」


と認識していた。






話を覚えること

単語を覚えること








でも実はそうじゃなくて



「沢山の情報からなにを覚えるのか切り取ること」









ここだったのかもしれないなって思いました。










大事なのは困難さの

要因を引き算として捉えることです








算数で、文章題が苦手な子がいるとして

なにが原因で必要な情報を切り取ることができないのか?

って引き算的に考えた結果



文章の内容を視覚的にわかりやすくしたり


文章ってゆう情報のせいで捉えきれてないと考え、文章を見せずに音読で伝えたり



という手立てに繋がるのかなと。






こう考えると、色んなアイディアがたくさん湧いてくるような気がします。



改めて、特別支援教育に有効とされている教材を、一体どういう風に引き算してるのか?

ってゆうことに着目して分析してみたい!

と思ったりもした!









もちろん、足し算的な考えで、色んな情報を与えたほうが効果的なケースもありますよ

こればっかりはその子の特性次第!笑





でも引き算的な考え方って意識しておかないと、盲点になりがちなんじゃないかなって思いました。








あと大事なことは


ワクワク感!!



これ!



苦手なことを苦手と知っていて

取り組む

ってゆうのは自己否定感との戦いですからね





自然に褒めてあげるとか


できてるよ!ってことをその子の特性にあった形で伝えるとか



好きなことを織り交ぜるとか



ここに関しては引き算ではなくて、足し算的な考えなのかな。










困難さの要因を捉えて

どれだけ引き算的に考えて情報を絞ってあげられるか

どれだけワクワク感や自己肯定感を保てる環境を設定できるか





こういうところが特別支援教育の「学習」という面において大事なことなんじゃないかなと思います!








また実践の中で気づいたことは

言語化しよう。








おやすみなさい🌙💤





卒業


3月になって段々上着を着るのを忘れるような暖かさになって来ましたね

たまに冬の最後の悪あがき的な寒さに

やられますが…









卒業のシーズンです。

今の仕事に就くまえに

とある塾で1年間働いていました

2016の11月から2018の3月(あと一回出勤)






女優になるから高校なんて行く必要ない

って言ってる女の子がいたり

こっちもびっくりするぐらい勉強してくれた男の子がいたり







週ごとにみんなどんどん変わっていきました












学校ではない第3の学びの場

という可能性が学校外の教育施設にはあります。








斜めの関係。

勉強ももちろんたくさん教えたけど



それ以上に思春期の子供たちが抱える色んな悩みを聞いていたような気がします











友達とうまくいかず喧嘩したとか

親と喧嘩したとか

恋をしてるとか

将来の夢がわからないとか








答えを見せてあげることはできないし

どれだけ寄り添えたかわからないけど

一緒に葛藤しながら日々を過ごしていました









中学三年間のうちの最後の一年間に関わる

ってゆうのはすごく幸せでした


毎日の授業がとても楽しかった

ふざけた冗談を言ったり

変な絵を書いたり

信頼関係ができればできるほどに

より一層出勤が楽しみになっていった









大学を5年かけて卒業して社会人に一度なった僕は

それなりに仕事をこなしてなんとか生きていたけど、

色んなバランスが崩れて

心も身体もボロボロになってしまって

一度、社会から離れました










戻ってこれるのかなってずっと不安だった





勉強を教える仕事ならできるかもと

始めたのが塾の先生です











それからの日々はまさに

子供に勉強を教える教育者

ではなく、僕が僕の心を取り戻すきっかけを子供からもらう日々でした






純粋な子供たちにどれだけ救われたか











今日卒業式を迎えた2人の生徒が

塾に会いに来てくれました。



ありがとうって手紙をくれました


寄せ書きにメッセージを書きました




ありがとうと言いたいのはこっちです


今の仕事に就こうと勇気を持つことができたのも、全部みんなのおかげです。






卒業してもう会うことはない

なんて寂しすぎるからラインを交換しました


退職するという立場の特権かな





次は先生ではなく少し年上の友達として

お兄さん的な存在?として

少しでも関わっていけたらなあと

思ってる



さよならだけなんて嫌だもんね










先生、生徒という

縦の関係

勉強を教える側教えてもらう側

ではなくお互いが成長していく関わり


その意識を強く持てた1年間でした



それは今の仕事に直結していい影響をもらってる。


感謝しかないなあ



いつか彼らが成人した時に

お酒を飲めたら嬉しいですね

その頃僕は30歳か…

と思うとちょっとショックだけど笑






春ですね

出会いと別れの季節だ


でもなるべくつなぎとめて

次の春夏秋冬を迎えたいものです。



でわ!


専門性って何?

障害のある子供達や、成人の方と関わる

ということに対して、専門性ってゆう

ハードルが少なからずあるとは思うですけど

専門性ってなんなん?


っていつも思います。





ABAとか、心理療法とか箱庭?

とか、学ぶことはいいことだし

理にかなってはいると思うけど

それははたして関わっていく上で

絶対条件なんかな?

ってゆう疑問がずっと昔からありました





もし絶対条件なら

障害のない社会なんて訪れるの?



って思います 

    



だって専門性のある人はこの社会の中で一握りですから




むしろ

障害のある人と密に関わったことない

人の方がおそらく多いし

その専門性というハードルがある故に

どう話しかけていいかわからない

という人も少なからずいると思う










僕の場合は

従兄弟に聴覚の障害があったけど

小学校ぐらいの時一緒にめちゃめちゃ

遊んでたし、手話なんてできなかったけど

意思の疎通に困ったことは一度もなかった



でも伝えたいことはわかったし

僕の意思も彼はわかってくれた





波長を合わせる、合わせてもらう

そういう相互関係の中に関わり

ってゆうのは生まれるはずや!

ってゆう意識でずっと実践をしてきたし

今もそれは変わってません


          







でもそれはセンスとか感受性。

みたいな言語化しづらい何かを紐解く

ということだし

そこにもまた、違和感なく適応する人となかなかできない人がいる













「なんか仲良くなった気がする」

「この子って、こいつってもしかしたらこういう気持ちなんかな?」


とか漠然とした、理解

ここにもっと価値をもたらしたいんですよね







支援とか、関わりに答えなんてないと思うしあってはいけないと僕は思います








わからないからこそ

知ろうとする。

わからないからこそ

一緒に頭を抱える

そこに対話が生まれる

そのループに向き合う。









これが一番大事だと思う。













今日指導にはいって、

「即時強化がすごく上手ですね!」




って褒められたけど



即時強化?そんな意識はなかった



ってめっちゃ思いました。











即時強化ってゆうのは

子供が何かプラスになる行動を起こした時に

3秒以内に褒めてその行動を強化する



ってゆうものらしいけど










ぼくは子供の行動を強化したい!

と思って



「めっちゃすごいやん!

素晴らしい!!」



ってゆう言葉をかけてるんじゃなくて








心から、この子めっちゃ頑張って

計算してくれた!!

こんなに暗算できるんや!



すごい!!!!!!



という感動から声をかけるだけ。











それが教育ってことやとぼくは思ってます







勉強を教えてあげる、支援してあげる

行動を変えてあげる、


じゃなくて


目の前の当事者と共に学ぶ、生きていく



上下関係ではなくて対等










専門性よりもそれが絶対条件やと思う








  

主観的なものは

研究としては中々成り立たないし、

今の流れだと軽視されてるのかもしれないけど


ぼくは主観的な、質的なものに

全て委ねるわけではないけど

それをしっかりと大事に心に留める

ことこそ教育学や障害学に

必要なことやと思っています









職場の歓送迎会で飲んでたら

専門性について少し議題にあがって

いたので、ほろ酔いに任せて

自分の意見をつらつらと書いてみました








半径30センチの支援と

広い社会における支援のあり方

それを擦り合わせて変えていくことが

音楽以外に見つけた僕のやりたいこと

やとなんとなく思ってます。







路上ライブ奮闘記


 KARとboy2kins はこの2月

ライブハウスやクラブのイベントでのライブはなく、9本の路上ライブを敢行しています。




初めてマイク握ってライブしたのが

今は亡きパイ山でした




もう一度初心に帰ろうと

とっても寒いこの時期に

相方も快く協力してくれて

1mpc1mcのスタイルで

ストリートで僕たちのヒップホップを

叫んでます。



f:id:karkazuo:20180223141614j:plain






めっちゃ人だかりができたり

するとこまではいってないけど

小さくてとっても大きな出会いが日々あります。



f:id:karkazuo:20180223141349j:plain



ヒップホップのダンスをしているブラジル人のアレックスと仲良くなったり





東京から神戸に旅行に来てた人が

東京でライブあるときは絶対

いきます!ってゆってくれたり




待ち合わせで待ってる青年が

付けてるイヤホンを外して

じっくり僕らの音をきいてくれたり




街に届いた!と思う瞬間が

ちょいちょいあってそれが活力。








赤信号が変わるまでの間だけでもいいから

何か心に訴えかけたいし

その表現力はとことん伸ばしたい。








やっぱりね、アーティストである以上

ライブ力が第1条件やと思う





4曲のセット組み替えたりしつつ

10ループぐらい

なんやかんや毎回三時間ぐらい歌います

同じ曲を一日に8回ぐらい歌う




同じ曲でも歌い方を変えてみたり

拍の取り方を変えてみたり

試行錯誤しながら




 

本当に寒すぎて終わったら

ありとあらゆる体の感覚がなくなって

ものすごい睡魔に襲われるけど

心地いい感じ

表現ってゆうのはやっぱり人生のテーマかも




思いや、考えを言語化すること

そして精一杯それを伝えること

忘れたくない気持ちを形にすること





大切なことは音楽に教えてもらったような気がします。






今は製作をしながら路上ライブの日々です

が、3月の末ぐらいからまたライブハウスや自主企画でイベントをうったり

とあるアーティストとの2マンライブが

あったりするので



また是非進化した僕らを

みに来てください🙏








子供に合わせて演じる度合いについて


六連勤も終わり

合間に路上ライブもあって

ラッパーとしても仕事としても

最高に充実した一週間でした!!






今回は子供と接する時に

子供の目線にあわせて演じる

ということを支援者や教育者の人は

少なからずしているかと思いますが

その度合いみたいなものについて自分なりの考えを述べていこうかなと







そもそも演じる

ってゆうのは

例えば3歳のお子様を前にした時

「〜ちゃん、そんなこともできるんや!?

すごいなぁ」


と行ったような言葉を






トーンをあげたり

少し赤ちゃん言葉のように砕いたり

する表現を使うことですね








僕も意識します。

わかりやすい言葉を選んだり

トーンをあげたり、わざと笑顔を作ったり。

リアクションを大げさにしてみたり。












でも最近なんとなく思うことなんですけど

演じる度合いを

一定のパターンを持つことって

すごい危ういなあって。








子供はとても敏感だと思うので

お子さんによって、過剰な声かけや態度は

受けがいい場合と良くない場合が

あるような気がします。




例えばある子は

リアクションが大きいのはすごい喜ぶけど、あんまり声のトーンが高いとちょっと

楽しくないとか


リアクションが大げさだとテンションが上がりすぎて、ゲームのルールとかどうでもよくなっちゃう!とか






なにより子供を理解するということにおいて、自然体で関わるということを

僕はとても大事にしているので

少なからず演じている自分に

違和感があったりします。











でもこの違和感って仕事に慣れていけばいくほど忘れていって、職業病のように

ごく当たり前にできるようになっていく

ことなんですよね












一面ではすごくいいことだと思う。

でも一面で、なんの疑問も持たずにみんなに同じように接してしまう

という要因の一つになり得るなあ

と思います。












もちろん演じて子供の目線で関わることを否定しているわけではないし、僕も実践していることだし、理にかなっていると思います。









でも一回、自分の関わりを見直す

ということは子供を理解する上で大事なこと。










少し、演技の度合いを変えるだけで

また違う一面がみえたりするものですからね









まぁ何が言いたいかというと、

一つの演じるパターンだけで子供に関わるのではなくて、こうしたらどうなるだろう?


ちょっと言葉遣いを変えてみようかな?



と、日々試行錯誤していくことは

忘れてはいけないのではないかなって

ことですね。












意外と大人っぽい3歳もいれば

結構子供っぽい小学生もいます。


その子に合わせた関わりができるといいなあ






といつも考えています。







結構教育の業界に従事している人向けの

記事になりましたが、何かのお役に立てれば🙏